…ドイツの居酒屋で
私が滞在したボムホルダーという基地は、ヨーロッパに配置されている第一戦車師団をサポートする任務を持っている。アメリカ国内を除いては最大数の戦闘員がこの基地に駐在し、周囲にあるフランス、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、スイス等の諸国の中心部に位置し、車で数時間でそれらの国にたどり着けるという、ヨーロッパ内で戦略的に重要な基地である。また、第一戦車師団の一部もここに配置されている。
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会計職についていた私は、経営する4つのバーの総合マネージャーでもあったので、夜になると時々バーを見回っていた。ある晩バーでメキシコ系のグループ5人が、白人1人を袋叩きにしているのに遭遇した。私は仲裁に入ったが、酔っ払った大の男達を説得するのは命がけでもあった。日本人の私は、3つのグループのどれにも属さない中立であることと、多少の柔道と合気道の心得があったということで多少は一目置かれていたのだろう、なんとかメキシコ・グループのリーダーと話がついた。このように軍隊の中でも、メキシコ人、黒人、白人と3つのグループが3スクミで人種的に対立しあっているのを私は何度か目撃した 。
それ以後、私はこのメキシコ人の男とは親しく付き合うようになったが、実は彼は薬の密売人であった。
私は大学時代や軍隊内で、ヘロインなどの危険薬物は避けたが、大麻、ハシシュ、ペヨテ、LSDなどの薬物を試したことがある。何でも見て体験するというのが私の主義であり、大麻以外は一回しか試しておらず、大麻はアルコールやタバコに比べて人体に害が少ないというのが今でも私の意見である。大麻を危険物という認識を社会に植えつけているのは、タバコ会社のプロパガンダだと思っている。
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私はこれらの薬物は今でも嫌いだし、特に危険なものにはとことん反対してきたが、彼はヘロインという危険な薬物も裁いていた。私は彼にヘロインだけは止めるように説得し続けた。とうとう彼が私の説得に応じて、ヘロインの密売を止めることにしたことは、私にとって今でも嬉しい記憶として残っている。
私は、軍隊では大学などに比べて比較的に薬物の流通が少ない印象を受けた。しかし、ベトナム還りの兵士達からはベトナムでは薬物が万延しているという話をよく聞いた。戦争で受ける兵士達の精神的苦痛からの逃避がいかに巨大だということを物語っているのだろう。
私は、ライン・アフレームを見て以来、� �く基地近郊の居酒屋に行くようになった。一つはドイツのビールに魅せられたからだった。ドイツのビールは、こくが有りアルコールの度が高いので冷やさなくても十分飲め、電車に乗っていると、時々ドイツ人がフリップトップ蓋のビールを懐に持ち歩いているのを見かけた。私も寝る前にいつもドイツ・ビールを枕もとに置いて、夜中に起きた時にのどの渇きを潤していた。
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もうひとつの居酒屋に行く楽しみは、ドイツ人を相手にチェスをすることだった。ドイツの居酒屋の中ではよく、チェスをしている年配のドイツ人を見かける。私がゲームを見ていると、必ずと言ってもいいほど呼びかけられ、私は応じてチェスの対戦していた。私は、7才位から父にチェスを教わって、大学時代にはチェスクラブに所属し、USCF(全米チェス連盟)にも登録していた。しかしある時、大学でスーパー・コンピューターを相手にひどい負け方をして以来、コンピューターがもっと進化したらとても人間はチェスで太刀打ちできないと考え、以後一回も公式なチェス・トーナメントに参加していなかった。
週末は、ドイツの色々な町に出かけて居酒� ��でドイツ人相手に好きなチェスをするのが習慣となった。ドイツの力強い音楽が流れ、もくもくとタバコの煙に覆われ、たくさんの人だかりに囲まれて、映画の中のシーンにでてくるような雰囲気を味わいながら、おいしいビールを飲みチェスができるというのは、いつも最高な気分であった。これらのドイツ人の幾人かと親しくなり、家に食事に呼ばれて「俺達は昔、同盟国同志だったよな」などと話しながら、チェスをすることが度々あった。その内、基地内でドイツ人対アメリカ兵のチェス・トーナメントが行われるようになった。第1回のトーナメントでは、私が全勝で優勝した。
1971年のフランクフルトで行われたUSCF(米国チェス連盟)主催の公式トーナメントでは、私は総合で第4位となり、アマの早指し部門では優勝した。
1年半のドイツの滞在が終わりに近づいた頃、私は同じ大隊所属の友人と一緒にフランクフルト市内でゲーテがかつて住んでいた家を訪れた。彼と親しくなったきっかけは、以前に基地内のサービス・クラブが主催した詩のコンテストで私が1位で彼が2位に入賞したことだった。アラスカ・インディアンで詩人の彼とはいつも、詩を話あっていた仲だった。彼が書いた詩は、インディアンが白人に虐げられている様子を歌ったものが多く、自然をあるがままに捉え、漢詩のような雰囲気をもった作品で私はとても好きだった。
ゲー� �の家の見学から帰ってきてから、私達はよく天才詩人ゲーテの詩について議論し合った。彼は除隊数年後に、名の知れた詩人となったが、私はゲーテの数々の言葉の中に、詩人の限界というものを感じ、それまでたくさん書いていた詩をそれ以後余り書かなくなった。
2年間の兵役も終わりを告げようとしているある日、私の黒人の上官の強い推薦で仕事に関しての功績を称えるメリトリアス・アウォードという勲章を授与しドイツを発った。
私は、チェスを通してドイツと言う国とドイツ人を本当に好きになっていった。ドイツ人だけでなく人間自身をもっと好きになっていったのかもしれない。日本、アメリカ、カナダ、ドイツと住んでみて感じたことは、文化の違いで、人は歩み方こそ違っても、目標はいつも「幸せ」という共通なゴールなのだということだった。
数週間後に、私はオナラリー・ディスチャージ(名誉ある除隊)を果たして実家に帰った。
写真上:第一戦車師団のM1-エイブラムズ戦車;フランクフルト近辺にて(USArmy提供)
写真下:ゲーテが生まれ育った家のパーティー・ルーム;フランクフルト
(Goethe Houseより
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